一昨日、本屋さんの目の前をフラット通ると
「村上春樹」
の文字が目に飛び込んできました。
(以下ペンネームとして、呼び捨てで書かせていただいてます。ご了承ください。)
そのまま引き寄せられるように、この本と「猫を棄てる(村上春樹 著)」を手に取りレジへ直行。
久しぶりに村上春樹の繰り出す文字の海に浸れる!
本を買った帰り道って、どうしてこんなに心が満ち足りた気持ちになるのでしょう。
この「一人称単数」は、エッセイと短編を合わせたような内容でした。
この前にエッセイ「猫を棄てる」を読んだせいもあるのでしょうが、この短編ではいつも以上に、村上春樹自身が主人公のである「僕」に投影されているようです。
あれこれもエッセイだったのか。
ともったら、「あれ、やはり短編小説なのか」
と思わされたり、あっちに行ったりこっちに行ったり。
現実のような、非現実のような。村上春樹ワールド。
今回はこれまでの短編および長編、そしてエッセイの内容が随所にちりばめられ、また昔の短編も読み返したくなりました。
特に最後の「一人称単数」は、なんという終わり方....
何かの物語とつながっているのだろうか。
海辺のカフカかな、それとも羊?それとも無関係?
とにかく気になる。
私は文学的知識人というわけではないので、
村上春樹の主人公が潜る井戸がイドの隠喩だとか、そういう解釈的なものは実際のところよくわかりません。そうなのかもしれないし、そうでないかもしれない。その程度にしか思いません。
じゃあ何をもってして村上春樹作品を読むのかというと
彼の織り成す言葉にただ浸りたいからです。
風が通りすぎるかのように、さぁーと言葉が頭の中をながれて、通り過ぎていく。
それは心地よく流れ、あまりに自然なので言葉が通り過ぎたときには、自分が一体何を読んだのかもきちんとは覚えていません。でもそれは、たしかに何か、雰囲気のような、言葉で表せない「空気感」を体のなかに残していきます。
とても巧みな描写と直喩で、読者が気遣いないうちに本の世界へ誘い込む。話の内容は現実的であり、非現実的。それなのに、その境界があまりに曖昧で自然に非現実へ誘い込まれるため、非現実的な部分までなんだか信じてしまう。もういったい何が本当でなにが本当でないのか。
そしてその解決の糸口もないまま、物語は終わり、読者は現実とも非現実ともつかない中間世界に放り出される。この、心地の良いフラストレーションが、また村上春樹を読みたいと中毒的に思わせる原因なのかもしれません。
また前の作品も読み返そう。